風林火山に市河文書の話はちゃんと出ていたんだな.気づかなかった.

久々に風林火山を見直してましたら,リアルタイムで見ているときは気づきませんでしたが,第三次川中島終了時に,勘助と晴信が市河氏について言及するシーンがありました.
勘助曰く,「市河藤若殿の働きはすばらしい」対して晴信曰く,「勘助を使者として書状を送ったのが功を奏した喃」

市河文書

この書状こそ(結構有名な)市河文書で,「詳細はこの書状を届けた山本菅助に聞いてくれ」といった文章がかかれており,山本勘助の存在を証明する史料といわれております*1

山本勘助は実在の人物か

市河文書が発見されたのは40年ほど前と比較的最近のことです.それまでは,香坂弾正忠虎綱の手記をもとに,江戸時代に編纂された甲陽軍鑑にしか山本勘助の存在は確認されておりませんでした.しかし,この甲陽軍鑑は合戦の経過などに誤りが多く,江戸時代にド素人が勝手にでっち上げをしたと断じられ,史料としての価値はないとされております.したがって,山本勘助なんてデタラメだという反論も多かったのです.
市河文書が発見され,山本勘助(菅助)の存在が確認されたことから,勘助存在説が元気を取り戻しているという状況なのです.

市河文書が発見された経緯

市河氏は戦国時代・江戸時代を生き残りましたが,明治時代の廃藩置県により禄を失い北海道へ入植しました.1969年,市河氏の子孫がたまたま大河ドラマ天と地と」を見ているとき,信玄の花押(サイン)が出ているのを見て,所蔵している書状(市河文書)を思い出しました.「なんだか見たことのあるサインだな.」と.
こうして市河文書は世に出ることとなりました.
余談ですが,「天と地と」では,うさんくせえ野郎は出さないぜ,という理由で,山本勘助は出ておりません.山本勘助なんていないんだ!と断じている作品から山本勘助の存在を証明しかねない史料が現れるとは,ビックリ.

で,山本勘助は存在するのか?

まだわかりません.
個人的な意見ですが,使者としての山本勘助は存在するのでしょう.甲陽軍鑑に出てくる山本勘助は市河文書にある使者の山本菅助をベースとしていると考えても良いのではないでしょうか.でも,軍師としての山本勘助なんて存在しないと考えております.
もし軍師として活躍しているなら,もっと史料に出てくるはずなのです.おおかた,香坂弾正忠が使者・山本菅助をたまたま知っていて,手記に残した程度なんだと思っています.

*1:勘助の字が違うが,戦国時代には,漢字の当て字はよくあった.