功名が辻

つまらないぞ!

だんだんつまらなくなってきました.千代の中の人ってまじめな役回りには向いてないよな〜と思う次第です.あと,歴史がトントン進んでいくのはいいのですが,視聴者を置いてけぼりにしてる予感.視聴者はどういう歴史背景の中でストーリーが進んでいるのか理解できているのでしょうか.ちなみに,来週はいきなり話が飛んで,叡山攻めになります.1年半くらいワープ??

「千代… 命拾うたぞ」
「お命の持ち帰りこそ,功名の種にございます」

もうパターンすぎ.

名台詞

id:Hie:20060308でも書きましたが「小りんなんて〜」は名台詞のようです.

功名が辻(ドラマ),姉川の合戦のベース資料は何か?

功名が辻姉川の合戦に関するどうでもよい考察をしてみます.いえ,考察にすらなっておりませんが.

姉川の合戦では,徳川軍をどこに据えるか,スッタモンダの争いがあった言われています*1.これは,資料によって大きく異なるようですが,基本的には「織田方の資料」「徳川方の資料」の二つに分けることができます.前者は「信長公記」を基盤としたもので,後者は「三河物語」「東照宮御実紀」などです.
信長公記」では「徳川は朝倉と戦った」と書いてあるだけで,それといった理由などはかかれていないらしいですね.しかし「三河物語」では,「徳川軍は後詰となっていたけど,はるばる遠方からきたのに,一番槍じゃないなんて,ヤダ!」ということで,スッタモンダの末,対朝倉の一番槍にしてもらった.また,「東照宮御実紀」では,最初は織田が朝倉勢と,徳川が浅井勢と戦うことになっていたけれども,朝倉勢は浅井勢より数が多く,織田方が日和ってしまい,「徳川殿は強いほう(朝倉)と戦ってほしい」と信長が頼みこみ,徳川家臣の不平を抑えて家康が朝倉と戦うことを決意するという形となっているそうです.
平たく言うと,「徳川方の資料」では,家康は「先陣で戦いたい!」と張り切ってるという状況が見て取れるわけです.家康が天下を取ったとき,誇張したことももちろんあるのでしょうが*2,家康はここで名をあげておかないと,本当に織田の家来になってしまい,大名としての価値すら失いかねない.つまり,戦国レースで敗退してしまいかねないという裏があったのだという解釈が一般的らしいです.一方「織田方の資料」では,別に徳川からの援軍は不要じゃないけど必須でもないよ!というスタンスといえるらしいです.立場の違いはあれど,どっちも自陣営の内情を示している,それぞれに正しい記述といえると.

さて,功名が辻ですが,いったいどちらのストーリーなのかというと,徳川方の資料であるもののごちゃごちゃです.最初は「徳川殿は後詰め」からはじまり,「いえ,朝倉への先陣を希望」という主張がなされ,「では,徳川殿はそのように」ということになりました.このへんは「三河物語」がベースでしょう.その後,秀吉が「信長様は元から家康殿を朝倉勢と戦わせるつもりだった」といっていることから,ちょっと「東照宮御実紀」に近い話になっています.
私は,功名が辻姉川の合戦に関しては徳川方の資料をベースとしていると結論づけました.

追記: 「信長公記」と「東照宮御実紀」における姉川の合戦

http://www.ikedakai.com/shincyokoki7.htmlからの引用.

廿四日に四方より取り詰め、信長公は、たつがはなに御陣取り、家康公も御出陣候て、同じ龍が鼻に御陣取る。

織田方からすれば,家康の働きなど大したことじゃない,という態度.

http://www.ikedakai.com/jikki1-2.htmlからの引用です.

はじめ信長は朝倉にむかへば君には浅井とたゝかひ給へとありしが。暁にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め。我は浅井をうつべし。徳川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ。只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど。君はたゞ織田殿の命のままに。大軍のかたにむかはんこそ。勇士の本意なれと御返答ましまし。俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。

家康が家臣の不満を抑えて朝倉と戦うという美談仕立てになっています(^^;

わかりにくいよ!

姉川の合戦の勝利に貢献したのは家康,光秀といわれています.しかし,ナレーションでは「徳川軍が浅井軍の横腹を突き,形勢を逆転させた」といっています.ちょっとまて,徳川は朝倉と戦っていたのではなかったのか!
これは,一応そういうことになっています.確かに,徳川軍は浅井軍の横腹をついたといわれています.何でそんな状況になったかというと,徳川軍が対峙していた朝倉軍を突破したから.そして,そのまま浅井軍の横腹に突っ込んでいったというわけ*3.いきなりの敵の出現に浅井軍はビックリして敗走しちゃったわけです*4.…ってわかりにくいよ!
ちなみに,光秀は朝倉軍の背後に回り攻撃,最後に丹羽長秀が正面を突いてもみつぶしたようです.

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id:sanraku2:20060306 さんの日記

*1:まぁ,このへんはどこかで聞きかじった内容です.

*2:この傾向は特に東照宮御実紀に現れています.

*3:ちなみに,突っ込んでいったのは,信長から借りた稲葉一鉄が.さらにどうでもいいですが,稲葉一鉄は「頑固一徹」の語源という説があります.

*4:余談ですが,「三河物語」「東照宮御実記」では,織田がなかなか浅井と決着をつけられず,結局徳川の援護で勝ちました.みたいな書き方をしているわけですが,これは徳川将軍家に浅井の血が流れているから,浅井を強く書きたかったから.という裏があるとも言われているようです.根拠は何もないのだろうけど,信長公記にあまりにも徳川の善戦ぶりがかかれていないから,というのが根拠といえば根拠?信長公記を記述した太田牛一は信長の近従であり,非常に厳密な書き方をすることで知られており,彼の残した資料は信憑性が高いと言われています.